2013年02月23日

最終究極目標(人生論)

旧正月を向かえて、考える事が増えて来ました。

生命の誕生と命の最終日

ふたつの言葉を学んだ時期もありましたが、想いは深まり、喜びと悲しみ、
力と弱り、赤ん坊と老人などと人間の生命を自分の中で学ぶ必要があると思いました。

今は人の体調を改善する。身体の動きをグレードアップする。健康な身体に向かう人のお手伝いを仕事にしている。

そう…中間に関わっているにすぎないのです。

ある女性は言いました。

「最終的に人が求める処は不老不死」

知識人となり感情、理性を修正された人は更に健康を取り戻して進みます。

肉体は滅びても魂の行く世界にて如何に暮らして行けるかを意味しているのです。

古く成った肉体から魂が離れた時、人間界では理解出来ない異次元へ旅立ち、その異次元の世界では、身体の痛みも無く、老体の辛さも無く、眼の不自由も無く、食欲、贅沢な品々も無く、想像を絶する世界なのだと思います。

年と共に人は欲は少なくなり、質素な暮らしぶりが伺える。そして健康な身体を願い、争いも無くなり行く事を自然と時間を過ごしているのです。

もし、自ら不健康を望み、雑欲に満ち、理性も失った時間を過ごして生命最後の日を向かえて異次元の世界へ旅立った時、その人の欲望に満ちた状態とあるならば、身体の痛みも無くても軽率な考えや欲望に執着した魂は、苦しみ、悲しみ、迷いの連鎖に狂うのでは無いのだろか。

赤心とは赤子の心と言う道教の中に言葉があります。

お腹から出る瞬間、その赤ちゃんは、無の領域であり、心は真っさらな状態だと意味しています。
そう数日前の記憶も無いのです。

胎内での生活最後の瞬間でもあり必要以上の習慣も持っていないのです。

産まれた瞬間から地球上の生活の始まりです。


感情で乱れ、欲で間違え、誘惑に惑わされた中間を生きている。
時には無の境地に入る事も必要なのです。

凡人は、平常であるも、見え隠れする善と悪の間を学び生きているとも言えます。

凡庸な人。
変わらない人、成長をする気も無く、改める心も無く、平凡以下で有ってもよく、必要なふで有っても流す人を意味しているとも言えます。


死後、人間は何処へ帰るのでしょう。

人間界で生きた成果により帰る場所は異なります。

死ぬ気でチャレンジしても次の日生きているのであれば、間違えだと思っています。便利な言葉に惑わされているに過ぎないのです。破壊からは何も生まれません。

生きる気力、何度も挑戦する気力、守る意志で人生を送る事が大切に思っています。

傷付いた身体は治らない場合も有ります。しかし、傷付いた魂は赤心により治る可能性は高いのです。

精神養成修行を練修修持するのです。

より高い位置を目指してください。


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posted by セイゾン at 19:29| 神奈川 ☀| Comment(0) | 言葉 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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